10/29
今日、ダリヤが落ちた。
朝ご飯を食べて、お茶を飲んでたら目の前で。
もうすでにかなり綿毛になっていたので、傾いた花軸の下にティッシュをしいて、3日ほどたっていた。ふいに目の端で何かが動いたので、蜘蛛かな、と(最近、小さい蜘蛛と同居している)思って見たら、ぐらりと花が傾いだと思ったら、ぼたり、と音がしそうに、花芯の、おしべの塊が、まわりの綿毛の重みに負けて、めくれて落ちた。
音がする。と思ったのに、なんにも音がしなくて、視界の端に映らなかったら気づきもしなかったと思う。落ちる時、ぼたり、でも、ぽとり、でも、音のする花はあるのだろうか。
よくお話ししていたお店の店員さんからもらったもので、よく考えたらもう2週間くらい経っている。お店をやめるというので、小さなお菓子をもっていったら、喜んでくれて、急いで裏に引っ込んだと思ったらラッピングされたダリヤを一本くれた。お祝いの花の一部じゃなかったろうか。そんなの、いいのに。困ってしまう。と思いながら、次はうまくいくといいですね。と思った。
幸せになってくださいね、なんてだいそれたことは願えなかったけど。
今日は朝から試験管を40本くらい洗っていて、その間ずっといろんなことを考えていたので、どうにも吐き出したくてしょうがなかった。
言葉にするのは苦手で、何か違うものになってしまう気はするけれど、どうせ忘れようとしてもその思考はどこかの引き出しに残っていて、たまに、本当にタイミング悪く飛び出したり、根を張ったりするので、ならいっそ形にしてしまったほうが浮かばれる。
そんなことも考えた。
坂口先生の「堕落論」を思い出していた。唐突に、どこかの作品を思い出すことがある。
想起した原因は内容なのだけど、内容というより、読み方が頭に残っている。なんだか、雑魚寝をした人のお話を、拝聴させていただいております、といった感じなのです。拝見より、拝聴。太宰先生はそんなことはなくて、どちらかというと、ぬるま湯に頭までつかっているような、それでいてどんどん流されていくような、たまに、はっと起き直るような感じ。違うかもしれないけど。
堕落論を読んでいるときはまさに、拝聴サセテイタダキマス、という心境。
あちらは雑魚寝で、こちらは、正座で。たまに考え込んで俯いてしまう。たまにクスリとして、でも、拝聴だから、隠れてクスリとする。
何でしょうね。
そうおもったら、なんだか、高校の時の先生に対する態度を思い出しました。
尊敬できると思った人には、終始そんな態度なのです。
他人の意見を拝聴するのは好きです。
できるなら、意見や意志、そのものではないほうが好きです。趣味と日常のエッセイが好きなのはそれでです。紅茶、着物、珈琲、花。くだらないような、余分なような、そんなことを描いている部分から、にじみ出るように感じられる人生観が好き。せかせかして大声張り上げるものより、ソファとか、雑魚寝とか、喫茶店とか。そういうところで、ぽつり、ぽつりと、風もないのに金木犀が落ちるみたいに、こぼれてくるお話が好きです。勿論、それだけじゃダメな時もありますけどね。
共感は苦しい。けど、時によって根本から救ってくれる。
共感できないものはさびしい、けど、好きなのです。
窓格子と硝子の先にある、あったかく燃えている暖炉。そんなの。
話が戻ります。
堕落の果て。世界がそこに行くまでどのくらい時間がかかるのやら。
堕落の先は、孤独の、地獄だっておっしゃっていたような気もします。孤独は怖いですね。何らかの形で簡単に世間とつながることのできる今でさえ。
でも、私の思想なんですけど、思いあまって創作の子にも言わせてしまったんですけど。
自分一人を愛して生きられて、それで満たされるならば、どんなにいいか。どんなに安楽になるか知れない。
そう思うのです。
人は、本来孤独なんだもの。でもそんなに強くなれないから。安楽でないことをわかっていても誰かと一緒にいたがる。他人と、外部と、交流することは絶対に安楽ではなくて、でも、その分強くなにかを感受することで。悲しかったり苦しかったり喜んだり、全部強い。ほんとうの喜び。
私は、安楽なのも好きです。強いものは疲れますから。
今日は長くなります。
マインドパレス、という言葉が好き。
直訳したら精神の宮殿、でしょうか。もとはドラマに出てきた言葉です。現代のシャーロックホームズがもっていて、彼のそれはとっても系統的で、めちゃくちゃに見えて理知的。彼の推理やめちゃめちゃな生活の基になっている頭脳内です。
でもそういう意味でなく、私の受けた印象は文字通り、宮殿です。ホームズさんには悪いですが。
これまで得てきたものがたくさん詰め込まれている、私だけの宮殿。多分、絶対、綺麗ではないでしょう。掃除しなきゃなあ、取捨選択しなきゃなあ、と思いながら変わらないまま来ています。
私のマインドのパレスはよくわからない雑多なものでごちゃごちゃしているでしょう。古い喫茶店のカウンターとか、昔の路地裏とか、そんな感じ。あと、博物館の、きれいに長々と説明がついているでもない、こいつらがいたんだ。という雑然とした模型や化石の羅列のような。例えばこれ、何に使うの、といわれても、知らない。気づいたらあったんです。捨てるのも忍びなくって。時折捨てようとするんですけど、舞い戻っている。
仕方ないんですよって、笑うしかない。
例えば私の嫌いな気取り屋だって、パレスにはいる。いっそ看板かもしれない。美術館の噴水みたいに。草間彌生さんのかぼちゃのようなオブジェのように。正面切って、どうでしょう、看板です。と。
そうすると、結構嫌いではなくなる。
私の、お城ですからね。
このまま生きていけたらなあ。でもパレスの中身にも、いろいろあって、転がり落ちて誰かを刺してしまったり。というか、そんなことばっかりです。そうしたら、結局、後悔するんです。あんなもの捨てておいたらよかった、って。愚にもつかない。
誰かの後悔を聞くのは苦手。末っ子だからでしょうか。上の姉たち、親たちの後悔をたくさん聞いて、だから、これは駄目なことなんだ。って避けて生きてきたら、どれがどう駄目なのか、ほんとうにはわからなくなってきたような気がします。ただ怒られたくない、その一心で生きる人間になった。だれも悪くないのになあ。おかしい。
でも私だって誰かに、後悔したからしないほうがいいよ、っていうんだと思います。ヒトってあんまり変われません。
ひと、ほんとに、あんまり変わらない。
大学生になって随分変わったと思っていたけれど、思考の深度が変化しただけで。根底にあるものの一部がどうみても中学生の頃から変わっていないことに気づいた時の、ちょっとした絶望というか、安堵というか。
マインドパレス。大事にしていきたいです。割れた石ころみたいな変なものでも、いがぐりか、ウニみたいな扱いにくいものでも。
随分長々と話しました、ものすごく読みづらいでしょうね。他にも話したいことがあったような気がするけど忘れたのでやめにします。
途中から話し言葉になっていました。可笑しいですね。
企業説明会に行ってきます。ひょっとしたら今日の日記は二回更新されるかもしれない。変ですけど。