しらさぎ

しらさぎに乗った。

しらさぎは普通の新幹線とかなり路線が変わっている。田園地帯や山間部、言ってしまうと田舎を通る。

えんえんに田舎の風景を見た。広大な田圃や畑や、そのさなかに走っている道路。小さい山の麓によくありがちな、紅白の百日紅が咲いている、古い家が何度か通り過ぎていった。

どこかで似た風景を見たはずだと思った。地元の風景もよく似たものだが、それでなく、既視感があった。思い出した。静岡にいた頃、何と言ったか、割合有名な電車に乗って山の中へ進んで行った。そのときの、風景によく似ている。とくに、百日紅が咲いている小屋が。あのときは春先だったろうから、たぶん百日紅ではない。梅の木だった。

そのときは友人と一緒に乗ったから、そんな風景を見て、いちいち殊更にはしゃいで見せなくてはならなかった……このときのならなかった、は、そうあれと強いられたわけではなく、私自身が人といるときに必ず陥る強迫観念のようなものだった……けれど、今は一人だ。心置きなく風景を眺めることができる。特に感想を持つこともなく、思考に耽ることもできる。

最近はどうも、崖の上を走っているような心地になることが多い自分にとって、そのことは悪いことではなかった。人生のほとんどがこうであればいいのに、と思う。

最近、一時が万事そんな感じだった。元来やる気のない性格でありながら、いつもいつも早く帰りたいと念じながら、それでも人によく見られたいと焦って、つんのめりそうになりながら崖淵を走っている。

最近でもないのかもしれない。昔から私はそういう癖があった。大した努力もない身で、人に、どうにか少しでも良く見られたいと考えて、いつ転ぶかも危うい駆け足をしている。危うい綱渡り、という表現を太宰治がしていた気がする。私が好きな理由がそれだ。きっとこういう精神は、批判されて然るべきなのだ。

勢いのいいカンナの葉が目の端を過ぎた。ああいうものを折りとってみたいという考えは、皆持つものなのだろうか。

本当の、生きている白鷺を何羽も見かける。珍しいものでもない。白鷺も青鷺も、そこここに生きている。

岩肌が露出した斜面を白鷺が飛んでいた。鳥が飛んでいるなあ、と思った。口に出したら、絵のような風景だね、という感想になるだろう。風景を絵に例える時点で陳腐だ。しかも、具体的な作者も絵も頭に思い浮かばないまま、こんな絵を見たことがある気がする、といったぼんやりとした思考でもって抱く感想なのだから始末に追えない。これも、一時が万事この調子なのだから、ずいぶんつまらないことだと思う。何をするにも何を喋るにも、はっきりとした意識や知識に裏付けされたことは言えず、望洋として、とても目の悪い人間が眼鏡を外して世の中を見たときのような、印象だけでものを言っている。印象でものごとを捉えて、印象でしゃべっている。知識がつくものでもない、新しい知見が得られるでもない。

こんな人間と喋っていて楽しいのだろうか。数少ない私と喋ってくれている友人には頭が上がらないと同時に、常に訝しんでいる。私なら、私のような人間とは喋らない。すかすかで果汁も肉もあったものでない妙な実を食わされたような心境に陥りはしないだろうか。

 

それはそうとして、列車自体はとても綺麗だった。清潔、新しさ、の面では新幹線に劣るとは思うが、どこか落ち着きのある感がある。

古いバスのような橙色の照明も、赤が色褪せて淡い臙脂色のようになった座席も、古めかしい蛇腹のカーテンも良い。ぼんやりと風景を眺めるにはこれ以上ない。

時折線路か車体かがぎしぎしと鳴って、その音も良かった。こうした自然に湧き出る雑音を煩わしく思うときと、好ましく思うときがある。今日は後者だった。最近の疲れた体がそう思わせるのかもしれない。

散々日が照っている外と、涼しい車内との間にいるのも良かった。半身がほんのり暖かく、日差しの強さがわかる。不快感だけを取り除いたような、夢の中のような夏。

そうこうしていると街中になった。

久しぶりに、思考と自己批判の感覚を思い出してしまったような気がして、書き出してみた。

思考が癖になっても良くない。書くためにわざわざ思考を深めたりしても、これも良くない。

終わりにしようと思う。

 

わざわざ難しい言い回しを使ったわけではなくて、思考しているといつも妙な日本語を使ってしまっているのをそのまま書き出した。次からは普段通りにしよう。