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お葬式に出てきました。
でも、お葬式のことは書きません。色々ありすぎて疲れたというだけで。
お葬式なんていう、命の大切さを学べる?場所に言っておいてこんなことをいうのもどうかとおもうんだけど、最近、親に関わるたびに、なんで産んだの?って聞きたくて仕方ない。
聞きたいというか、なんで産んだ?ってずっと思っている。
『I was born』という短編の詩がむかし、教科書にのっていた。
I was bornという構文を知った主人公が、bornが受け身であることについて、父親に、僕らは生まれさせられるんだ。自分の意思ではないんだね。というようなことを言っていた記憶がある。
たしか、主人公の母親は亡くなっていて、そのあと父親はかげろうの腹を見せてもらった話をしていた。
腹の中にいっぱいに詰まった卵、の描写があった。かげろうは卵を産み落とすと死ぬんだった気がする。
あの頃はいい子だったから、命をつなぐことの大切さとか、尊さとか、そういうのを感想文には書いたんだと思う。
確かに、尊いことだと思う。いのちの営み、という観点から見れば。あるいはその光景を目の当たりにすれば、争い難いなにか、心臓を突くような感情でもって、これは尊いものだと感じるのかもしれない。
いったんそういうの全部置いて考えてみると、僕は生まれさせられたのだ。と思う主人公に、どうしても感情移入してしまう。
だって、自分の意思ではないのだもの。
誰も自分の意思で生まれてきてはいない。
親を選んで、望んで生まれてくるとか、嘘っぱちだと思う。
子供の教育は親の義務。教育してもらった子は、幸せな子。
私はきっと将来子供は産まない。少なくとも、今の考えのままならば。
どうして、自分の身勝手で産まれさせた子に、ああしろこうしろなんて、教えることができるだろうか。可哀想で仕方がない。
というか、ことはもっと単純で、辛い想いをしたくなくて、それが標準化しているこんな世界に生まれてきたくなかっただけなんだよな。
生きている間、楽しいこととか嬉しいことはたくさんあるのは間違いないのだけど。
少なくともトータルで見れば、生まれてこなかったら色々とよかったんじゃないかなぁ。割と冷静に考えているはず。
産まれてこなきゃよかったなんて言われたらものすごく悲しいと思うのに、自分で思うぶんにはいくらでも考えてしまうのはなんでなんだろう。
辛い思いをしたくないから死にたいというのは、甘えとか逃げとか、0とnullを勘違いしているだとか見たことがあるけど、nullでもblankでも、いるよりマシ、な気がするんだよな。いるより、いなかったことになった方がどんなに楽だろう。それとも、1を0にすることと1をnullにすることの違いを説いているのだろうか。そんなのみんなわかっているだろうに。1を0にするのは大変だ。1をnullにするのは不可能。
人間は簡単に壊れるくせに、壊そうとすると重労働なのは矛盾している、産まれるとかも、死ぬときも、苦しみしかないのは、おかしい、と、思う。
人間は生物学的に欠陥しているんじゃないだろうか。
まじでなんで産むんだろう。
いや、生物的には、こっちの方がおかしいのだ。じっさい子孫を残すというのは本能に刻まれているはずなのだから。
でも、おかしいまま生きていきたい。きっと辛いけど。おかしいままのほうがいい。矯正なんかされたくない。
アダルトチルドレンというやつを、YouTubeで見つけて観た。
わりとあてはまる、ところどころ違うけど。子供のままなんだなと、薄々思っていたけど確信に変わってしまった。
問題は、その原因がどこにも見当たらないことだ。親から虐待を受けた経験もなければ、極端に酷いいじめなんかをされた経験もない。これ、という辛い経験というのがない。
世界一可哀想になりたい。
自分で自分に、お前は可哀想だったから仕方ないよ。なんて甘やかせるなら、と思うけど、そう思うこと自体が幸せだったからなんだろうな。私は全くもって可哀想な要素がない人間です。
ここ数年は、元からこういうふうに生まれついていたんだと思うようにしている。環境とか、状況とかにあらさがしをすると、疲れる。そんなこと思いたくない。
生まれつき生きるのに向いていない。
そう思ったほうがよほどいい。
思考自体は前からずっとあったけどこれがめちゃくちゃ出張ってくるようになったの、ぜっったい就活のせいだと思うんですよね〜〜〜〜〜〜滅びろ